持続可能な開発目標?
「持続可能な開発目標 (SDGs)」とは、はて?
たった9文字だけど、この言葉から “不都合な真実” に似た感覚を覚える。そう、事実を語っても、梃子でも動かないというか、動けない側の慣性力の強さを感じるというか、もどかしさを常に感じるというか。
そもそも、破滅的な開発状況であることが示唆されているにもかかわらず、可能という文字が入ることで、かすかな希望の光を感じてしまう。その上で、ネイチャーポジティブを意識した開発目標を立てていこうよ!という、明るい方向のニュアンスにスポットライトが当たっていることも気になる。確かにネガティブ思考を前面にしては、打開策が生まれないことに合点はいくものの、なんとなくポジティブな雰囲気を醸し出した言葉に踊らされ、何かをしなくても、何もしなくても、この呪文を唱えれば自動的に回復していくような、まやかしの言葉にも感じる。自動車の運転は、認知→判断→操作 の繰り返しで安全な運転が出来るが、SDGs→SDGs→SDGs と呪文のように繰り返しても、地球環境の改善は期待できない。
2015年に国連で採択されてから早9年。2030年の達成年限まであと6年。色々なところで SDGs という表記を見掛けるようになったものの、SDGs という言葉のみを知識として獲得しただけに留まり、ファッション化した陳腐なワードに聞こえるようになってきた。それぞれの人や企業が、それぞれの物差しで推し量り、今の時代に生きる限定された人間だけが得をするための道具になってしまっている感じは否めない。
持続可能な開発目標には17のゴールがあって、169のテーマがあって、それぞれの名称と内容はかくかくしかじかで・・・、ということを知識としていくらインプットしても、活用することが無ければ、意味をなさない。むしろゴールの区切りも、どんなテーマの内容か知らなくても、道徳的、人道的、科学的な行動が必要なのだと思う。
※外務省でもSDGs関連の情報が発信されている。
リンク先ページ内にあるこれと同じ画像をクリックすれば、
ゴール毎のターゲットの詳細やどういった指標で達成度を推し量っているのかなど
の情報が日本語、英語併記で書かれている。
また、昨今国連から発せられるメッセージは、過激で直接的な表現になってきているように感じるが、馬耳東風、暖簾に腕押し、糠に釘といった雰囲気を感じざるを得ない。たばこの箱に書かれている過激な内容を見て、吸うのを止める人がいないのと同様な状況に思えるからだ。2:6:2 の法則に則ると、本当にやる人 2 vs どっちつかずの人+やらない人 の8 の結果はどうなるでしょう?と聞かれているようで、このままいけば悪化の一途を辿ってしまうのか・・・。
私は、SDGs推進派でも、否定派でもない。いまの時代を生きていて肌で感じる異変や、得られる情報を基に、私なりに地球環境のことや、将来世代のことを斟酌した結果、自由なる心証から、いま何をすべきかを判断し、行動している。きれいな地球環境を残していくことを、決して諦めたくないから。なので、上記どっちつかずの人6も味方につけて、納得のいく人生を送りたい。
ちなみに、私が「不都合な真実」という分厚い本を手にしたのは、発刊されて1年半が過ぎた2008年半ばのこと。挿絵やグラフが多く、文章よりも力強いメッセージが発せられているように感じた。本に魅せられたのでDVDも購入し、何度も見返した。あれから16年。不都合な真実で語られた方法も取り入れながら、個人的にはCO2を極力増やさない行動を行っているつもりだが、世界の総CO2量は増加の一途だ。
さて、持続可能な開発目標という言葉に惑わされず、一歩ずつ。
ですね。